【話題】そう言えば、ヒトラーとは一体どんな政治家だったんだろう?

【話題】そう言えば、ヒトラーとは一体どんな政治家だったんだろう?

【話題】そう言えば、ヒトラーとは一体どんな政治家だったんだろう?

アドルフ・ヒトラー(ドイツ語: Adolf Hitler ドイツ語: [ˈaːdɔlf ˈhɪtlɐ] ( 音声ファイル)(アードルフ・ヒトゥラ), 1889年4月20日 – 1945年4月30日)は、ドイツの政治家。ドイツ国首相、および国家元首(総統)であり、国家と一体であるとされた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者。
325キロバイト (48,973 語) – 2022年1月30日 (日) 16:14
こんな独裁政治を行った政治家は過去にいないと思う。

2 ニューノーマルの名無しさん :2022/02/10(木) 14:16:03.28


(出典 www.chosyu-journal.jp)

ドイツ国会議事堂炎上事件(1933年2月27日)

 ナチスが政権をとった1933年3月の総選挙は、もはや自由な選挙ではなかった。ナチスのゲッベルス率いる情報宣伝省が政権与党の猛烈なプロパガンダをおこなう一方、他の政党の機関紙は様々な理由で発行停止にしたり、SAのデモ隊が彼らの印刷所を破壊したりしたからだ。

 そのなかでこの年、南ドイツのメスキルヒ市で起こった事件は、ヒトラーの性根をあらわしている。この町の地方紙『ホイベルク民衆新聞』が、「ナチスは、不平不満をかこち猟官運動をする連中の煽動者」という記事を載せ、ヒトラーを当時ドイツを騒がせていた連続殺人犯になぞらえた。するとヒトラーは、ひそかに警察とはかって報復に出た。編集長を検束し、新聞を発行禁止にしたのだ。そしてその後、ナチスは「大掃除」と称して市の幹部職員を様々な理由で追い出し、古参党員から順にポストをあてがった。多くのドイツの都市で同じことがやられたという。

 ヒトラー運動の聖典とされる『我が闘争』も、その重要な柱が「強者は必ず弱者に勝利する」「議会主義は無責任体制を意味し、民族を代表する一人の指導者の人格的責任において万事が決定されるべき」「民族共同体が拒絶すべきすべてのことがら(民主主義、議会主義、平和主義、マルクス主義など)にユダヤ人が関係している」などとなっていると研究者は指摘する。ヒトラーは首相になったら歳費は受けとらないと「身を切る改革」を表明したが、『我が闘争』はそれが不要なほど巨額の印税収入をもたらした。

 3月総選挙が終盤にさしかかった2月27日夜、ベルリンの国会議事堂が何者かの手で炎上した。ヒトラー内閣はただちにこれを共産党による国家転覆の陰謀だと決めつけ、「国民と国家を防衛する」といって非常事態宣言・大統領緊急令を発した。共産党の活動は禁止され、数千人の左翼の活動家が投獄された。また、言論・集会・結社の自由や住居の不可侵など、ワイマール憲法が定めた基本的人権の保障が停止された。

 続いて総選挙後の3月23日、ヒトラーは国会議員の3分の2の賛成で授権法を成立させた。授権法は、首相が国会審議を経ずにあらゆる法律(憲法に反する法律を含む)をつくることができると定めた。これによって三権分立の原則は廃止され、国会の機能は消滅した。その後、次々につくられたナチ法によって地方分権の否定、ナチス以外の政党の禁止、労働組合の解体がおこなわれ、ヒトラーは独裁的な権限を持つ総統となってヨーロッパ各国への侵略戦争、ユダヤ人の大量虐殺へと進むことになる。

 2013年に副総理だった麻生太郎は、日本の憲法「改正」論議に関連して「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」といったが、それはこの辺りのことを指す。

背後で支えたのは財界 ヒトラーに巨額献金

 問題は、誰がヒトラーにカネを出して支えたのか、である。それはドイツの財界で、財界はヒトラーに巨額の政治献金をおこない、「ヒトラー首相」を求める請願書を大統領ヒンデンブルクに届けたりした。

 帝政復古を主張する国家人民党の党首・フーゲンベルクはドイツメディアを支配するコンツェルンの総裁で、早くからヒトラーとナチスを支援した。ヒトラーが首相になると財界幹部25人が会談を持ち、国防軍の復活や反共産主義で一致。製鉄最大手のクルップが300万マルクの選挙運動資金を約束したことが記録に残っている。つまりドイツの財界が、危機の時代にヒトラーのような政治家を求めたということであり、ヒトラーはその代理人だった。またアメリカが第二次大戦に参戦するまではフォード、GM、デュポン、IBMなど米国大資本も積極的にナチスに出資、支援した。

 さて、このヒトラーを痛烈に皮肉り、笑い飛ばしたのが、チャップリンの『独裁者』だった。『独裁者』は第二次大戦が始まったばかりの1940年10月にアメリカで上映が始まった。撮影と上映はさまざまな妨害を受けたが、観客は「毎回、耳が聞こえなくなるほどの拍手」をし、前年の『風と共に去りぬ』を上回る大ヒットとなった。その後、ヨーロッパや南米など世界各国で上映された。ヒトラーは製作と上映を中止に追い込もうとあらゆる手を尽くしたが、『独裁者』は1941年2月末の時点で世界中の3000万人が観劇し、拍手喝采を送ったという。チャップリンとヒトラーとのたたかいは喜劇王の圧勝に終わった。

 橋下徹や維新の会の政治手法がヒトラーに似ているかそうでないかは、読者のみなさんの判断に委ねたい。

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