【芸能】「マツケンサンバ」大ヒットの陰で…暴れん坊将軍・松平健70歳が直面していた「芸能人生の岐路」とは?

【芸能】「マツケンサンバ」大ヒットの陰で…暴れん坊将軍・松平健70歳が直面していた「芸能人生の岐路」とは?

【芸能】「マツケンサンバ」大ヒットの陰で…暴れん坊将軍・松平健70歳が直面していた「芸能人生の岐路」とは?

 きょう11月28日、俳優の松平健が70歳の誕生日を迎えた。折しも松平が歌って踊る「マツケンサンバⅡ」が再びブームとなっている。今回のブームは、彼が2020年に開設した公式YouTubeチャンネルに同曲のミュージックビデオを投稿して以降、TikTokなどSNSを通じて若い世代から人気を呼んだことで火がついたとされる。一昨年、東京オリンピックの開会式が行われた際には“「マツケンサンバ」待望論”がSNS上で巻き起こり、松平はその年のNHK紅白歌合戦に17年ぶりに出場し、特別企画としてこの曲を披露した。

 今年に入ってからも、曲とコラボレーションしたカフェ「ビバ~マツケンサンバⅡ ワールドカフェ~オレ!」が東京の渋谷パルコに期間限定でオープンするも、入場に必要な事前整理券が発売2日で完売したため急遽会期が延長されるほどの盛況ぶりを見せる。これには当の松平も、同カフェ開催にあたっての取材会で「なんでこんなになっちゃったのか不思議」と首をひねった。

ヒット曲が誕生するまで

マツケンサンバⅡ」の誕生はじつに29年前、1994年までさかのぼる。もともとは「松平健 大阪新歌舞伎座十月公演 〔唄う絵草紙〕」と題する和風レビューショーフィナーレを飾る曲としてつくられた。和風レビューショーとは、オーケストラの演奏に合わせ、松平がダンサーたちと和装で踊るショーである。このときの公演は、第1部が松平の代表作である時代劇暴れん坊将軍』の舞台版で、第2部がレビューショーという構成であった。

 松平が座長を務める舞台公演ではそれ以前より、観客に笑顔で帰ってもらうため、ショーフィナーレには第1部のお芝居の出演者も全員再登場し、「松健音頭」「マツケンマンボ」といったにぎやかな曲を披露してきた。「マツケンサンバⅡ」は、タイトルどおり初代「マツケンサンバ」のパート2との位置づけで、ショーの楽曲すべてを任された作曲家の宮川彬良が手がけた。宮川によれば、吉峯暁子(当時、OSK日本歌劇団の座付作家・演出家)による詞がFAXで送られてきたとき、一読してすぐ、メロディーをメモ書きすることもなく、最初から最後まで一気に歌えたという(宮川彬良『「アキラさん」は音楽を楽しむ天才』NHK出版、2022年)。

 1994年に初披露されるや「マツケンサンバⅡ」は好評を博し、翌年の公演で新たな曲を宮川がつくっても、次の年のフィナーレにはまた返り咲くほど根強い人気を得た。振付や衣装も年を追うごとに派手なものになっていく。振付に関しては、1998年アメリカ公演に際し、振付師の真島茂樹を迎えて一新された。真島はもともと日劇ダンシングチームトップダンサーで、松平とは旧知の仲だった。松平は久々に真島と再会したとき、彼が数年前から日本舞踊を始めたと知って、それなら着物のさばきもわかっているだろうと思い、振付を頼んだという。

アメリカでも大好評

 アメリカ公演の振付とあって真島は、松平が腰を大きく振ったりと、意図的に派手なものにした。これについて本人は《あんなに腰を振らされて(笑)。「これはちょっと恥ずかしいなあ」って言っても、「いいの!」って言われてね》と語っている(『SPA!』2004年9月21日号)。ただし、真島の見たところでは、松平は《「おれ、腰なんか振っちゃうの?」/なんて言いながら、誰よりも激しく腰を振っていました。クイッなんてね。思わず「ちょっと派手に振りすぎです!」って言っちゃったもの》と、乗り乗りであったようだが(真島茂樹踊り子魂』KKベストセラーズ2009年)。

 真島の狙いは見事当たり、「マツケンサンバⅡ」はアメリカでも大好評で、曲の後半では観客が立ち上がって一緒に踊ったという。松平たちは帰国後、同曲の振付は今後もこれで行くと決めた。

 衣装は「マツケンマンボ」のときからラメの生地による光り物の着物だったが、「マツケンサンバ」でスパンコールの生地に変わった。そのうちに生地を松平が海外に行ったとき自ら選んで買ってくるというこだわりようであった。

レコード会社にCDリリースを断られ…

マツケンサンバⅡ」がファンのあいだで定着すると、CDがほしいとの声が上がった。これを受けて松平はレコード会社に持ちかけるも、断られてしまう。そこで自主制作したCDを公演会場限定で発売したところ評判を呼び、一旦は断念したレコード会社からのCDリリースが実現した。一方で、名古屋の新聞社や放送局に勤める4人の女性たちが「マツケンサンバを紅白に出そう」と目標を掲げ、ラジオ番組で曲をかけてもらったり、紙面で紹介したり地道に宣伝活動をしてくれた。そのおかげもあって、2004年、ついに「マツケンサンバⅡ」は大ヒットし、松平は紅白出場を果たしたのだった。

 ちょうどこの前年、2003年には25年間続いた『暴れん坊将軍』のレギュラー放送が突如として終了していた。主演の松平は個人事務所を経営するだけに、社員を路頭に迷わせるわけにはいかない。そのため、すぐ収入になるディナーショーを始めたり、それまで「将軍」のイメージを崩さないためやってこなかった汚れ役に挑んだり、バラエティ番組にも出演したりと、あらゆる手を尽くした。そこへ来ての「マツケンサンバⅡ」のヒットは、「将軍」とは違う彼のイメージ一気に世間に広めたという点で、松平の再スタートを後押しすることになったともいえる。

 俳優としても、紅白初出場と前後して2004年暮れまでの3ヵ月間、ドラマ忠臣蔵』で主役の大石内蔵助を演じたのに続き、翌年の大河ドラマ『義経』では武蔵坊弁慶に扮し、存在感を示した。

憧れは石原裕次郎

 そもそも松平が俳優を志したのは、地元・愛知県豊橋市の高校を中退して名古屋駅前の寿司屋で働いていたころ、当時の大スター石原裕次郎主演の映画『太平洋ひとりぼっち』を観て感動したのがきっかけだった。石原は中学時代から憧れの存在であったが、このとき初めて弟子入りして俳優になろうと思い立つ。家族が反対するなか、母親だけが唯一応援してくれ、かなりの額のお小遣いを渡して東京へ送り出してくれた。

 結局、弟子入りは石原の事務所が新人を募集していなかったためかなわなかったものの、新聞で団員を募集していた「劇団フジ」に入り、アルバイトで生計を立てながら俳優修業を積む。入団3年目には劇団公演で主役を張るまでになった。「松平健」の芸名はこのころに出演したドラマプロデューサーがつけてくれたものだという。

 転機が訪れたのは4年目、20歳のときだった。劇団の作家の紹介で、俳優の勝新太郎と出会ったのだ。勝から会うなり「おまえ、京都に来れるか」と訊かれたので「はい」と即答する。それからというもの3ヵ月ほど、あてがわれたホテルから撮影所に通いながら、勝の演技や、現場での作法などを見て学んだ。

勝新太郎が怒鳴ったわけ

 半年後には劇団を辞めて、勝が監督を務めるドラマ『座頭市物語』(1975年)で本格的に俳優デビューする。その制作発表に際し、勝をマスコミの記者たちが囲んでの食事会に同席すると、突然、勝が「松平!」と怒鳴り出した。当人にはさっぱり理由がわからなかったが、あとから「これでみんなおまえの名前を覚えただろう」と言われ、師の思いやりに気づかされる。

 このあと、1976年には昼の帯ドラマ『人間の條件』で初めて主演を務めたが、その後1年ほど、大河ドラマ『花神』(1977年)に出演したのを例外として、ほとんど仕事をしなかった。それも勝が「主役以外やるな。いま、脇役の仕事をすれば元の木阿弥だぞ」との方針により出演依頼を断っていたからだ。この間、松平は給料をもらいながら、歌舞伎や舞台を見るなどして勉強に励んだ。

 同時期には、舞台『天守物語』の主演の坂東玉三郎の相手役を選ぶオーディションで最終選考まで残ったものの、結局、落ちてしまった。しかし、それを伝える新聞記事を見た東映のプロデューサーから、新たに始まるテレビ時代劇の主演のオファーを受ける。主演に決まっていた大物俳優が降板したので、新人で行きたいという。この時代劇こそ『暴れん坊将軍』であった。

23歳の若さで主演に抜擢

暴れん坊将軍』がスタートしたのは1978年1月。撮影開始は前年の11月中旬で、松平はまだ23歳だった。彼が演じる将軍・徳川吉宗は、毎回、江戸市中に出かけては、旗本の三男坊「徳田新之助」を名乗って人々と交流しながら、江戸にはびこる悪を成敗するという役どころだ。役のうえでは将軍とはいえ、脇を有島一郎や北島三郎といったベテランたちが固めており、最初のころは撮影現場で出番を待つあいだもとても座っていられなかったという。

暴れん坊将軍』が始まると、師匠の勝に「おまえは将軍なんだからいい店で飲め。そこでお客さんがどういう遊び方をしているか勉強しろ」とアドバイスされる。松平はこれをさっそく実践し、銀座のクラブなどへ身銭を切って通った。結局、金銭的に苦しくなって2ヵ月ほどしか続けられなかったが、自信はつき、役づくりに活かすことができたという。

 周囲では当初、番組は「3ヵ月で終わる」との声もあったが、松平はそれに闘志をかき立てられ踏ん張った。1年目こそ視聴率は2桁に達しなかったものの、2年目の1979年NHK大河ドラマ草燃える』で松平が準主役の北条義時を演じるのを見て、初めて彼を知った人たちが新たに視聴者についたこともあり、人気番組となっていく。

将軍吉宗は「僕の分身」

 俳優・松平健としては、将軍吉宗とともに自分も成長していったという感覚があるようだ。最近のインタビューでは、吉宗について《僕の分身ですね。ずっと一緒に歳を重ね、成長してきたという実感があります。20代、30代、40代、50代と、その年代ごとの吉宗を演じてきましたし、今の自分が演じられる吉宗像もあると思うんです。機会があれば、ぜひもう一度やってみたいですね》と語り、なおもこの役に思い入れを抱いているとうかがわせた(『隔週刊 暴れん坊将軍DVDコレクション』Vol.2、デアゴスティーニ・ジャパン2023年)。

 勝新太郎の弟子への思い入れも終生変わらず、松平が34歳のとき初めてミュージカル『王様と私』に主演したときには、舞台稽古に立ち会いながら、サングラス越しに涙を拭いていたかと思うと、あとで楽屋に来て「ダメ出し、ないよ。よかったね」と声をかけてくれ、彼を感激させた(『婦人公論』2004年10月7日号)。

 かと思えば、その後、松平が30代後半頃には「おまえ、目が死んでるぞ!」と一喝されたこともあったという。その瞬間には、師匠が何を言わんとしているのかわからず、《それから、自分でもどこが死んでるのか考えました。悩みましたよ。あとから考えれば、満足してるんじゃないのかってことですかね。好奇心に燃えてないっていう。平和で目から鋭さが消えていたのかな。自分にそのつもりはなくても、知らない間にぬるま湯に浸かっていたかなと、それ以降、自分に厳しくなりました》と、のちに語っている(『BIG tomorrow2005年4月号)。

70歳でも果敢にチャレンジ

 その師の教えは、『暴れん坊将軍』終了後、必死になって新たな仕事を見つけようとしたときにも活かされたに違いない。このときのさまざまな挑戦は、現在も「マツケンサンバⅡ」をめぐる一連の展開にまでつながっている。その根底にあるのは、人々に楽しんでほしいという、松平が俳優として培ってきたサービス精神だろう。目下、大阪を皮切りに各地で公演中の舞台『西遊記』では牛魔王の役で、立ち回りを宙吊りで演じるなど、70歳を迎えてもなお果敢なチャレンジを続けている。

(近藤 正高)

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松平健 ©文藝春秋

(出典 news.nicovideo.jp)

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