【芸能】この2人はあと何回「再ブレイク」するのか…国民的歌手・沢田研二と国民的俳優・水谷豊の共通点

【芸能】この2人はあと何回「再ブレイク」するのか…国民的歌手・沢田研二と国民的俳優・水谷豊の共通点

【芸能】この2人はあと何回「再ブレイク」するのか…国民的歌手・沢田研二と国民的俳優・水谷豊の共通点

■「豊、ジェームズ・ディーンをやらないか」

沢田研二、75歳。水谷豊、71歳。

ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒』(島﨑今日子著・文藝春秋刊、以下『ジュリー』)と、『水谷豊自伝』(水谷豊・松田美智子著・新潮社刊、以下『水谷豊』)が話題である。

島﨑氏のほうは、沢田研二インタビューを何度か申し込んだが断られたようで、56年に及ぶ芸能生活の総集編という趣。私のように彼についてほとんど知識のない人間(私のカミさんは大のジュリーファンだが)には、これまでのジュリーの足跡がわかり、楽しく読んだ。

水谷も、テレビの『相棒』の劇場版を1、2本見たぐらいで、冷静沈着な杉下右京警視庁特命係・警部というイメージだったが、彼の映画デビュー作が『青春の殺人者』(1976年長谷川和彦監督)だったことを思い出した。私は同時代に観ている。

水谷は長谷川監督からこう口説かれたという。

「豊、ジェームズディーンやらないか

水谷は24歳だった。

「どんな話なのか、ほとんど知らないのに、『やります』と答えてしまったんです。答えたあと、僕は居眠りしてしまったんですね。夜遅い時間で、疲れていたので」(『水谷豊』)

■沢田がヒマワリなら水谷は月見草だった

原作は中上健次の短編『蛇淫』(河出書房新社)。口論から衝動的に父親を殺し、母親まで殺した若者が、恋人(原田美枝子)と彷徨(さまよ)い、ラストは両親の死体のある家を燃やし、自分も火に包まれるという、当時としてはかなりショッキングな映画だった。『イージー・ライダー』(1969年)や『俺たちに明日はない』(1967年)などのアメリカン・ニューシネマの影響が見てとれる。

水谷も『俺たちに明日はない』を観て、「自己破滅型というか、そういう主人公が多くて、惹かれましたね」と語っている。キネマ旬報主演男優賞を受賞した水谷の出世作である。

長谷川監督は2作目に沢田研二を主演に『太陽を盗んだ男』(1979年)を撮っている。

中学校の冴えない理科教師が、原子力発電所に侵入してプルトニウムを盗み出して、自宅で苦労の末に原子爆弾の製造に成功する。しかし、警察に脅迫電話をかけたり、テレビの野球中継を試合終了まで放送させるよう要求したり、ラジオ番組を通して次の要求を募集したりと、行き当たりばったりの犯行を続ける。

沢田の演技は素晴らしく、日本アカデミー賞主演男優賞にノミネートされている。この映画には警官役で水谷豊も出ているが、私の記憶にはない。

10代からカリスマ的人気を誇った沢田と、テレビドラマなどには出ていたが水谷とでは、沢田がヒマワリなら水谷は月見草だった。

だが、この2人、共通点も多い。

■今では考えられないシーンがお茶の間に流れていた

沢田は野球が好きで、立教大学に入り長嶋茂雄のようなプロ野球選手になることが夢だった。水谷もリトルリーグで活躍し、投手でキャプテン、東京大会で優勝している。

沢田は喧嘩が強かった。瞳みのるは沢田がファニーズというバンドにいた頃、演奏を終えた帰りに難波で喧嘩になり、一発でヤクザをKOした沢田の「蹴り」を見ている。

沢田は、「喧嘩なんて先手必勝です」(『我が名は、ジュリー』中公文庫)

共通の友人としてショーケンこと萩原健一がいた。沢田にとって萩原は唯一の心の友であり、水谷はよき先輩として。

ところで、『太陽を盗んだ男』の前に、島﨑氏にいわせると、「BL(ボーイズラブ)」の記念碑的作品が、沢田の主演で放送されていたという。

テレビ界の伝説的プロデューサーでありエッセイから小説まで書いた久世光彦のドラマ『悪魔のようなあいつ』がそれだ。

沢田が演じたのは3億円事件の犯人で男娼、不治の病に冒されているという役で、「時のトップスターが上半身裸でベッドシーンを演じるなど、今のアイドルドラマでは到底考えられないシーンが展開される。

「(中略)画面にはエロスと暴力と頽廃が充満し、女たちだけではなく、周囲の男たちをも狂わせながら破滅へと向かっていく良(沢田=筆者注)は壮絶なまでに美しい。良と、藤竜也が演じたバーのオーナー野々村の危険な関係は、視聴者の胸をざわつかせた」(『ジュリー』)

■水谷は不遇の時代を過ごしていた

この時、沢田は26歳。1967年18歳でザ・タイガースリードボーカルとしてデビューし、GS(グループサウンズブームの先頭を走っていたことは、いまさら触れる必要はあるまい。

ザ・タイガース解散後、沢田はロックバンドPYGで萩原健一とツインボーカル。その後、ソロ歌手になる。

「新曲を出せばその斬新なファッションも含めて話題になる時代のアイコンだった。七一年のソロデビューから十五年間の国内シングル盤総売り上げはトップ、沢田はポップスターとして覇権を握り続け、日本中の女たちが『ジュリー!』と叫んでいた」(『ジュリー』)

水谷を国民的人気者にしたドラマ『熱中時代』は1978年スタートするが、彼の芸能界デビューは早い。12歳の時に「劇団ひまわり」に入り、翌年、子役としてデビューしている。

数々の映画やテレビには出ていたが、次第に「どうもこの世界は違う、芸能は自分が進む道じゃないな」と思い、アメリカの大学に進学しようと決意したという。

だが、父親の会社が経営破綻して、留学どころではなくなり、日本の大学を受けることにしたが失敗。衝動的に家を飛び出し、2カ月ほど国内を放浪して家に戻った。

アルバイト感覚で京都の撮影所に行く。ショーケンの『太陽にほえろ!』の第1話、「マカロニ刑事登場」に犯人役で出演している。後楽園球場で萩原が力を抜かず追いかけてくるため、水谷も全力疾走した。

1973年ブロマイドの売り上げ第1位は森田健作、2位は石橋正次、3位が水谷豊だったという。

■売れる前に出会った松田優作との友情

そして『太陽にほえろ!』に登場したジーパン刑事、松田優作と出会う。優作23歳、水谷20歳。初対面で打ち解け、その日のうちに撮影所近くの焼き肉屋に行ったという。

まだお互いに名前が売れる前に始まっているから、格好をつけなくていいし、優作ちゃんには何でも言える、何でも話せるって感じがありましたね。ただ、家庭とか、プライベートなことはほとんど話さなかった。長く付き合うのって、お互いが気楽でいられる方がいいでしょ」(『水谷豊』)

ちなみにインタビュアーの松田美智子は松田優作の最初の妻であった。

優作は一晩でウイスキーのボトル1本を空ける酒豪だが、水谷は下戸。2人の交遊は優作が死ぬまで続いた。

優作が膀胱がんの治療のため都内の病院に入院したのは1988年9月のこと。水谷もその頃血尿の症状があり、見舞いに来た水谷は優作から、「豊も調べてもらえよ」といわれて検査することになった。

初期の膀胱がんが見つかり、水谷は入院、優作は退院して、水谷の見舞いに来た。

「二人で病院のトイレに隠れて煙草を吸ったり、屋上のベンチで差し入れのコーヒーを飲みながら色々な話をしたのよ。とにかく、楽しい話をした記憶しかない。あれは二人だけの秘密というか、とても密度が濃い時間だった」(『水谷豊』)

■棺におおいかぶさり、「うわっ」と泣き崩れた

だが、優作は、リドリー・スコット監督の『ブラックレイン』(1989年)の撮影が終了した後、急激に症状が悪化して、水谷と隣同士の病室になった。

最後になる入院をした優作を、水谷が新妻の伊藤蘭と見舞ったのが1989年10月。笑って別れ、ニューヨークへ新婚旅行に出かけた。帰国したのは優作が亡くなる前日だった。

「葬儀が終わり、火葬場で最後のお別れをするとき、水谷は棺に横たわる親友におおいかぶさり、『うわっ』と声をあげて泣き崩れた。松田優作は享年40。彼と20歳で出会った水谷は、37歳になっていた」(『水谷豊』)

萩原とは彼の代表作の一つであるドラマ『傷だらけの天使』で共演してから親しくなった。

「番組が始まってから、萩原さんに『泊まりに来いよ』と誘われて、なんどか家に行きましたね。最初の奥さんの小泉一十三さんと一緒の頃でした。『豊、風呂に入ろう』と言われて、風呂の中でいろいろな話をしたり。食事をごちそうになったりしました」(同)

水谷は自伝の中で、「会っているときは意識していないんだけど、過ぎてみると、その時々で経験したことが残っていて、影響を受けていたことが後から出てくる。優作ちゃんに会ったことも、萩原さんに会ったこともそう。それらの積み重ねですね」と語っている。

■お互いに「かなわない」と思っていた沢田と萩原

沢田と萩原の関係はもっと密であった。萩原は沢田のタイガースライバルである「ザ・テンプターズ」の人気ボーカルであった。

当時の萩原を見て、沢田はこういったという。

「ウエスタン・カーニバルなんかのとき、あの爆発するようなエネルギーとふきあげるステージには、ぞっとするような威力を感じて、もう、ぼくがファンの一人になってしまった、と感じたほどです。こいつには絶対負けたくない、と思いましたよ」(『週刊テレビガイド』73年11月16日号)

萩原は、歌ではジュリーにかなわないが、役者としてなら勝てると考え、そっちに進んだが、常に沢田を尊敬すべき相手として見ていた。「喧嘩がめっぽう強い」ともいっていたそうである。こんなことがあったそうだ。

大阪でGS大会があった後、沢田と萩原、堺正章布施明暴力団に拉致されたことがあった。連れて行かれたクラブで「歌え!」と強要され、黙っているのも泣きべそをかいているのもいたが、沢田はヤクザに面と向かってこういったそうだ。

「歌えないよ」

萩原は、「こいつ、度胸あるなあ、と思った」という。

だが、沢田も萩原が自分にないカッコよさを「全部持っている」と、コンプレックスを感じていたそうである。

■「俺はあいつが大好きなんだ!」

萩原と同年で「劇団青い鳥」の演出家で俳優の芹川藍はこう語っている。

「七○年代ってもの凄くモヤッとした時代だった。(中略)ショーケンはまだ野生が残っているライオンみたいなもので、芝居で絶対嘘はついていません。(中略)でも、嘘をつかない演技ってもの凄く精神的に消耗するんですよ。

(中略)ショーケンを見てたらウルウルする時がありました。何度も結婚して、何度も逮捕されて、いろんな監督や共演者と喧嘩して、ああしてないと自分を保てなかったんじゃないかとさえ思う。彼は、自分が幸せなところにいるのが嫌だったんですよね」(『ジュリー』)

ライバルだったと言えるとすれば、沢田研二です」。そう自著に書いた萩原は2019年春、惜しまれながら静かに逝った。享年68。

沢田はライブツアーの中で、こう語ったと『ジュリー』にある。

「昔のこととはいえ、ショーケンといえばジュリーと言われちゃうんだよ。ショーケンはそんな奴じゃないぞ。もっと凄い奴だぞ。俺なんて生き方が上手じゃない。ショーケンはもっと上手じゃなかった。俺は足元にも及ばない」

そして涙を飛ばして叫んだという。

「俺はあいつが大好きなんだ!」

■水谷は「カメラの前で狂うことができる役者」

水谷のほうは、『傷だらけの天使』に続いて『熱中時代』でスターの地位を確立し、彼が歌った主題歌カリフォルニア・コネクション」は65万枚の大ヒットとなった。

彼の代表作『相棒』が始まったのは2000年からである。初めて脚本を読んだ水谷は、「刑事物としてこんな本があるのかと驚いたし、とにかく面白かった」と興奮したという。

杉下右京の人物造形は、「『あの人、ちょっと嫌味な人ね』とか『冷たい感じ』とか、あまり人に好かれないタイプにしようと決めました。むしろ嫌われるキャラクターを意識的に創った。なぜ、彼がそんなふうになったのかは、時間をかけて分かってもらえればいいと」(『水谷豊』)

テレビを観なくなった大人を振り向かせたいとの思いで始めた『相棒』は劇場版ヒットし、公式オフィシャルガイドがつくられる類を見ない長寿人気番組になった。水谷の役者としての魅力を長谷部安春監督はこう表現している。

カメラの前で狂うことができる役者」

そんな水谷にも「老い」は迫ってきている。

「この間、ビックリしたのは、携帯電話で友だちと話しながら、『ない、見つからない』って一生懸命携帯を捜している自分がいた。凄くショックだったの」(『水谷豊』)

だが、「終活」という言葉とは無縁のようだ。

「考えてないです。だって、結局、今が過去の証明ですから。今が良いという自分がいれば、過去が全部肯定できる。楽しいことばかりじゃなかったけど、厳しい時間もあったけれど、ああいう体験をしたからこそ、今こうしていられるんだと思えてくる」(同)

■レコード、CDからネットに代わり、ファンも変わった

「君の色気は天下一品。男が惚れる色気です。千年に何人かのスーパースター」(作詞家宮川泰)である沢田は、1970年代の終わりに「TOKIO」を大ヒットさせ、デビュー25周年にあたる1991年にはNHKの衛星放送で、「沢田研二スペシャル 美しき時代の偶像」が5日連続で放送された。

だが、音楽業界もレコードからCDになり、ネットになっていった。熱狂的なジュリーファンも結婚して、毎回コンサートには行けなくなってきた。

沢田は、売れることにこだわった。だが、1983年に出した「きめてやる今夜」が10万枚を超えた最後になった。

渡辺プロからの独立、11年間一緒に暮らしてきた伊藤エミとの離婚で、18億円ともいわれる資産を譲渡したといわれる。“不倫”といわれていた女優の田中裕子と結婚したのが1989年11月。これが彼の芸能生活のターニングポイントとなった。

「……やっぱり離婚、結婚の時期ですね。まあ、のりきるのにエネルギーがいったということです。世の中の人に自分が品行方正な人間やと思われていたら困るという部分も含めて、一番いろいろ考えました。それこそ、再婚したからって本当に幸せになるかどうか何の保証もないわけで、その覚悟は大変だった」(『ジュリー』)

■バースデーライブには2万人が駆けつけた

妻から掃除、洗濯を教えてもらっていて、彼女と飲む酒が一番うまいと話す。

沢田は「テレビは出続けていると怖いもんなしですが、今たまにでるとアガります」

「残された道は生で歌い続けること」と思い定めてライブに全力を注ぐようになる。

変わったのはそれだけではなかった。政治的メッセージである「我が窮状」を歌って世に問うたのである。大江健三郎氏らが呼びかけ人になった「九条の会」から誘いの手紙をもらったのがきっかけだったという。沢田自らが作詞したこの歌には、「我が窮状 守りきれたら 残す未来輝くよ」というフレーズがある。

東日本大震災で多くの大事なものを失った被災地の悲しみを歌った「3月8日の雲」もある。以来、毎年3月11日にはミニアルバムを出して死者を悼んでいる。

還暦ツアー、古希ツアーで全国のジュリーファンを熱狂させた。だが、さいたまスーパーアリーナは「観客が少ない」という理由でドタキャンしてしまった。

しかし、今年の6月25日、彼の誕生日に行われたバースデーライブさいたまスーパーアリーナで行われ、「まだまだ一生懸命」には2万人近くのファンが詰めかけ、リベンジを果たしたのである。

■「あの頃の自分」を思い出す人が多いのではないか

私はWOWOWで見た。ザ・タイガースの仲間であった岸部一徳、森本タロー、瞳みのるバックに、沢田研二が虎の着ぐるみをまとって歌う第1部から、ローリング・ストーンズカバー曲サティスファクション」を歌う第3部まで、3時間以上舞台を縦横に走り続け、歌い続けた。まさに圧巻のジュリーの「ワンマンショー」だった。若い時と比べれば、かなりふっくらした体に白い髭を蓄えてはいるが、そこには紛れもないジュリーがいた。

ジュリー』は膨大な資料や関係者のインタビューで構成された沢田研二の集大成である。彼のファンでなくても、読みながらあの頃の自分を思い出し、しばしページを繰る手を止めてもの思いにふける。そんな至福の時間を与えてくれる良書である。

名優が自分史を語る名著といえば、竹中労が聞き書きした『鞍馬天狗のおじさんは聞書アラカン一代』(徳間文庫)や森繁久彌の『森繁自伝』(中公文庫)がある。『水谷豊』もその列に並ぶおもしろさと、貴重な証言が詰まった読み応えのある書籍である。ベストセラーになったのは当然である。

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元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、近著に『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)などがある。

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※写真はイメージです – 写真=iStock.com/deepblue4you

(出典 news.nicovideo.jp)

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