【芸能】父は赤井英和さん!「“浪速のロッキー2世”と言われて最初は嫌だったけど…」 赤井沙希(36)が語る、10年間のプロレス生活
プロレスラー、タレントとして活躍する赤井沙希さん(36)が、今年でプロレスデビュー10周年を迎える。もともと芸能活動していた彼女は、“赤井英和の娘”というレッテルに悩むなかでプロレスと出会い、母親の反対を押し切ってデビューを果たす。
しかし当初、芸能界からプロレス業界に来た赤井さんを良く思わない人も多かったという。ファンからは「親の七光り」と言われ、他団体の選手からは嫌がらせを受けた。彼女はそんな苦難をどのように乗り越えてきたのだろうか? 本人に10年のプロレス生活を振り返ってもらった。(全3回の1回目/2回目に続く)
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「飽き性」な性格なのにプロレスを10年続けられた理由
赤井 私はDDTにいたから、10年もプロレスラーを続けられたのだと思います。もしフリーのプロレスラーとして活動していたら、多分こんなに続いていなかった。これまでの選手生活の中で、もちろん嫌なこともたくさんあったし、DDTに不満を持ったこともありました。試合をしたいのに組んでもらえなかったときは、プリプリと怒ってしまったこともある。
でも、DDTは私にとって仲間であり、家族なんです。だから、どんなに理不尽なことがあっても、DDT自体を嫌いになることはなかったし、辞めたいと思ったことは一度もありませんでした。
――赤井さんは、ご自身の性格を「飽き性」と表現されていたことがありました。それでも10年続けられたのは、DDTにいたからということですね。
赤井 そうなんです。私は飽き性だし、めちゃくちゃ面倒くさがり。自分のために何かをすることができない。でも、誰かのためなら頑張れるんですよ。なんかベビーフェイス(プロレス用語で善玉、正統派の意味)みたいなこと言ってますけど(笑)。
だから大好きなDDTやファンのために、一生懸命になってプロレスに取り組めたんです。私が負けて「DDTだから弱いんだ」と言われないように強くなろうと思ったし、ファンの皆さんが胸を張って応援できるよう「強く、気高く、美しい」選手を目指してきました。
――ファンの存在もご自身の支えになっていたと。
赤井 私が初めて他団体の試合に出たとき、ブーイングが起きて、客席から「帰れ!」って言われたことがあるんです。当時は芸能界からプロレスデビューして間もない頃だったから、いろいろとバッシングされていた時期で。ただでさえ試合前から緊張していた私は、ブーイングを聞いた瞬間、「本当に帰ったろうかな」と思いました。
そしたら私のファンが、ブーイングをした人に怒って、客席で喧嘩を始めたんですよ。DDTのファンは優しくておとなしい人が多いし、そもそも客席で喧嘩なんか滅多に起きないんですけど。
ファンのそんな姿を見たときに、「私がこの人たちを守ってあげなきゃ。守ってあげるためには、もっと強くならなきゃいけない」と思ったんです。ファンへの想いを強くした印象的な出来事でしたね。
――プロレスデビュー当初は、よくバッシングされていたのですか?
赤井 私が芸能界上がりというのもあって、いろいろと言われていました。試合会場で言われるだけでなく、SNSで批判的なDMが送られてきたりとか。プロレスファンにバッシングされるだけじゃなく、他団体の選手に嫌がらせされたこともあって。挨拶したら無視されたりとか。
あとは、私が尊敬していた女子選手が、あるパーティーで撮った集合写真をSNSにアップしていて、私もその撮影にいたんですけど、私が写っている部分だけ切り取っていたんですよ。明らかに不自然に切り取ってあるから、すぐに気づいてしまって。好きな選手だったからショックでしたね。
――それはあからさまですね。
赤井 身近な人には「出る杭だから打たれるのはしょうがないよ」「注目されているうちが華だよ」とか言われたんですけど、そこまでされると、さすがにそうは捉えられませんでしたね。
――その時期に、プロレスが嫌になったりはしませんでしたか?
赤井 「私、何のためにプロレスをやっているんだろう」とは思いました。プロレス界、そしてDDTのことをもっと広めたいと思ってプロレスをやっていて、決して自分の名前を売りたいわけじゃないのに、なんで批判されたり、嫌がらせされなきゃいけないんだろうって。
でも一方で、私のことを応援してくれている人もいたから「その人たちのためにも頑張ろう」と思ってモチベーションを維持していました。
「赤井英和の娘」という肩書きしか見ていない人も
――赤井さんの場合、実の父親が元プロボクサーで俳優の赤井英和さんというのもあって、「親の七光り」などの批判も受けていたそうですね。
赤井 プロレスデビュー当初の私のキャッチフレーズが「浪速のロッキー2世、赤井沙希」でしたから。最初は嫌だったけど「あだ名みたいなもの」と考えるようにしていたし、プロレスやDDTを知らない人にインパクトを残せるのなら、別にいいのかなと思っていました。
でも実際に私が試合に出ると、その部分に対してめっちゃ熱くなる人もいて。「赤井英和の娘だから試合に出てる」と言われたときには、イラっとして「リング上で戦っているのは赤井英和じゃなくて、赤井沙希、私自身なんです」と言ったんです。そしたら「いや、対戦相手は赤井沙希じゃなくて、お前の裏にいる赤井英和と戦ってるんだ」とよく分からない反論をされました。しかも、そういうことを言う人に限って、あまりプロレスを見ない人だったりする。
――「赤井英和の娘」という部分しか見てない人もいたということですね。
赤井 少し上の世代の人には刺さるんですよ、「赤井英和の娘」というのは。だから芸能をメインでやっていたときは、「私は『赤井英和の娘』という肩書きがないと、いる意味がないのかな」と思ったこともありました。
でも、プロレスラーとしての私はそれを頼りにしていたわけでない。リング上で戦うのは自分自身だから、その肩書きは武器にならないし、意味がないと考えるようにしたんです。
とはいえ「娘」というのはウソじゃないので、今はプロフィールの一部みたいに捉えています。周りの人やメディアにそう言われても、「どうぞ、ご自由に」って感じです。
それにこの10年で、私の父親が赤井英和というのを知らないファンが増えてきたんですよ。最近ファンになってくれた人には、「沙希ちゃんのお父さん、赤井英和さんっていう人なんだ!」と後から驚かれます(笑)。
――ご自身の活躍で周囲の見方を覆していったのですね。10年間の選手生活の中で、一番印象深かったことはありますか?
赤井 コロナの時期ですね。特に、プロレスが「不要不急」と判断されて試合ができなくなったときは、「プロレスは世の中にとって、不必要なことなんだ」とショックを受けました。もしかしたらプロレスという文化が終わってしまうかもしれない、とまで思ったんです。
でも、世の中が落ち込んでいるときこそ、私たちプロレスラーにできることはあるんじゃないか、とすごく考えて。
リング上で何度も立ち上がって戦う姿を届けたかった
――当時はスポーツや文化活動をどうやってお客さんに楽しんでもらえばいいか、日本中が試行錯誤しましたよね。
赤井 そうですよね。私たちは、「プロレスラーが世間のため、ファンのために何ができるだろう」と考えたときに、試合中に何度やられても諦めずに立ち向かっていく姿を見てほしいと思ったんです。それが、プロレス本来の魅力でもあるから。
――プロレスラーの戦う姿を見せて勇気を与えることが、世間やファンのためになると。
赤井 せっかくお化粧で“盛って”可愛くしても、リング上では汗だくになって、化粧もつけまつげも取れて、見た目的には一番ダメな状態になる。でも、そんな姿を晒しながら何度も立ち上がって戦う姿を見てほしかった。
あと、プロレスで表現できないことはないと思っていて。プロレスの試合には、アツさもあるし、ハッピーな笑いもあるし、怒りも悲しみもある。プロレスラー同士の戦いには、人間の根源的なものが映し出される。だから、それを見た人のなかに、「この人たちがこんなに頑張っているから、私も頑張ろう」と思ってくれる人がひとりでもいたら嬉しいし、一瞬でもそう思えるきっかけを作りたいと考えていました。
――皆さんの戦う姿に勇気づけられた人は多いと思います。
赤井 なんとか無観客試合を配信できるようになったときには、試合中に技を決めたあと、カメラに向かって「私たちもみんなのことを見てるから!」とポーズを決めました。そのタイミングで相手にやられちゃったんですけど(笑)。
そしたら、お客さんから「生で見たかったけど、試合が行われるだけでうれしい」という反応をいただいて。そのときに、「会場にお客さんは来れないけど、カメラを通して繋がっているんだな」と実感しましたね。
撮影=杉山秀樹/文藝春秋
〈デビュー10周年で“電撃引退”、父・赤井英和には伝えず…「パパに言わなあかんのかな」赤井沙希(36)が明かす、プロレス引退の真相〉へ続く
(「文春オンライン」編集部)
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