色んな楽器がコラボしたがる『津軽三味線』

色んな楽器がコラボしたがる『津軽三味線』

色んな楽器がコラボしたがる『津軽三味線』

津軽三味線(つがるしゃみせん、つがるじゃみせん)は、津軽地方(現在の青森県西部)で成立した三味線音楽。本来は津軽地方の民謡伴奏に用いられるが、現代においては特に独奏を指して「津軽三味線」と呼ぶ場合が多い。撥を叩きつけるように弾く打楽器的奏法と、テンポが速く音数が多い楽曲に特徴がある。 楽器そのものの歴史は三味線も参照のこと。
22キロバイト (3,715 語) – 2021年9月28日 (火) 07:45

🪕津軽三味線について

中国の「三弦」が琉球を経て、大阪の境港に流入したのは15世紀半ば。
三味線は、日本史に燦然と輝く江戸の町民文化を支え、一方で、世間から見放された放浪の旅芸人たちの芸をも支えた。
あらゆる人間の生き様が刻まれた、450年にわたる「津軽三味線」誕生の歴史。
🪕文献に残されなかった津軽三味線の記録。
江戸期に隆盛を誇った三味線音楽は、現代においては面影もないほど市民の日常生活とは無縁の存在となっている。
このような潸々たる三味線音楽の中で、津軽三味線は唯一と言っていいほど現代社会の中で受容され、若手のアーティストたちを輩出し独自の音楽世界を発展させている。
現代の日本人の感覚では、三味線の音色は聞いた事がなくても、津軽三味線ならどこかで聞いたことのある人が多いのではないだろうか。
しかし興味深いことに、300年前の三味線音楽については豊富な資料が存在するのに対して、この一世紀足らずの間に成立した津軽三味線に関して、誰がどのように発展させてたのか、文献らしいものはほとんど残されていない。
口承によって伝えられている津軽三味線の生みの親「仁太坊」という人物も、名前が知れられることなくひっそりと亡くなり、そのお墓もどこにあるか分からない。
なぜこのようなことになったのか。それは仁太坊をはじめ、津軽において三味線を弾いていた人たちは、「ボサマ」と呼ばれる盲目の❊門付け芸人であり、彼らは身分的に最下層に位置する存在であったためである。
そのため、彼らは身内から疎んじられる存在であった。
仁太坊は、生まれてすぐに病気で失明した。時代は江戸。政府は盲人の救済政策を設けていたが、身分制度がつよい封建社会において、小さな渡し船の船頭の子であった仁太坊は、その救済の対象外とされた。
仁太坊のように救済からもれた盲人の多くがボサマとなり、終生掘っ建て小屋に暮らしながら雪深い東方地方をひたすら歩いて旅し、三味線を弾いてわずかばかりの米をもらって生活していた。
ボサマたちは地元の人たちからは乞食扱いされ、彼らが弾いていた三味線も乞食芸と見なされた。現に「津軽三味線」という名称自体この数十年の間に定着したに過ぎず、それまではずっと「ボサマの三味線」や「ホイド(乞食)の三味線」と呼ばれていた。
❊門付(かどづけ)とは、日本の大道芸の一種で、門口に立ち芸を行って金品を受け取る形式の芸能の総称。
しかし、津軽三味線は確かに彼らボサマたちによって三味線音楽から独立し、独特の音文化を作り上げた。技術的な発展は先述した通りである。
ボサマたちが追求したより大きな音、より高度な技巧。それはつまるところ他のボサマより目立ち、より多くの施しを得るためであった。津軽三味線の誕生は、政府から見放され、住民から見下されてきたボサマたちが三味線一挺によって生き残っていくための、文字通り必死の創作の結果であったのだ。

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