【悲報】ラサール石井、パヨクパヨクと言われてテレビに出演しにくくなる…

【悲報】ラサール石井、パヨクパヨクと言われてテレビに出演しにくくなる…

【悲報】ラサール石井、パヨクパヨクと言われてテレビに出演しにくくなる…

“哀川翔がミュージカル初挑戦 ラサール石井演出『HEADS UP!』が上演”. シアターガイド (2015年7月23日). 2015年7月24日閲覧。 石井光三オフィス 公式ホームページ ラサール石井の鉄板少年らさある(2006年12月22日 – 2009年4月2日) ラサール石井オフィシャルブログ「ラサール石井の生き急ぎ日記」(2009年4月1日
34キロバイト (4,232 語) – 2022年6月8日 (水) 03:38
未だに言葉の意味がわかっておりません( ;∀;)

1 jinjin ★ :2022/07/26(火) 23:58:19.48ID:CAP_USER9

ラサール石井「今の時代は、できるだけ少ない努力で成功しようとする」芸人気質の変化

(中略)

「もう、僕とリーダー(渡辺正行=66)がコント赤信号というグループをやっていたことを知ってる人も、40代前半より若い人では少ないんじゃないかな。リーダーの『待たせたな!』とかは知らない(笑い)。リーダーのコーラ一気飲みを見たら、ビックリしていますよ。リーダーは、渋谷『ラママ』でのコント大会をずっと主催でやっているからすごいよね。爆笑問題が初めて人前で漫才やったっていうコント大会だからね」

77年に渡辺、小宮孝泰(66)とコント赤信号を結成。
出会いは劇団テアトル・エコー養成所だった。

「リーダーと小宮がテアトル・エコーの1期後輩。ダチョウ倶楽部もテアトルの後輩だったね。僕らが渋谷のストリップ『道頓堀劇場』に出ている時に、リーダーを頼って寺門ジモンと上島竜兵が来たんです。肥後克広は、単独で沖縄から出てきて『道頓堀劇場』に入って、杉兵助師匠の弟子をやっていました。
リーダーに相談しに来た寺門と上島を肥後に会わせたんだけど、そこに南部虎弾がいたんです。南部もテアトル・エコーで、いつのまにか4人で組んでいた。既にもうダチョウ倶楽部が4人組だったことを、知らない人ばかりでしょうね。確かに、南部がいなくなってよくなって売れた。南部は、南部で電撃ネットワークで売れた」

解散こそしていないが、今ではコント赤信号として舞台に立ったり、テレビに出ることはなくなった。

ラサール自身は俳優として芝居に出たり、脚本・演出など作り手に回ることも多くなった。

SNSでは辛口の体制批判をして炎上することもある。

「だんだんとテレビに出られなくなりましたよ。それは、オレの老いもあるんと思うんだけどね。今更、バラエティーに呼ばれないのはいいんだけど、ワイドショーとかにも呼ばれなくなった。つまり政府寄りのことを言わないやつは、呼ばれないんですよ。昔から芸人が体制にかみつくのはあって、僕も変わってないんだけど、世の中が右傾化してきて“パヨク”とか呼ばれる」

世の中が変わって、芸人の気質も変わってきた。

「とにかく今の時代は、できるだけ少ない努力で成功しようとする。コストパフォーマンスを考えるみたいな感じでね。とにかく悪目立ちしないで、それでおいしいところをいただくとか。成功するには、時流に乗って一番強いもんにそっと付いていってね。これが今、推奨されていて、若者が皆、それを目指してます。
そんな中で『なんで、わざわざ損するようなこと言うの』っていうのが、僕の一番嫌いな言葉です。『もっと大人になれよ』っていうような風潮がまん延している。ずっと若い頃から変わらないで言ってると、いつの間にか大人げないと言われる。目先の利益はどうすんのよ、っていうような人間になってしまう」

https://news.yahoo.co.jp/articles/321b15002584e7ad3bcd7cc6be7df6312c0ab479

前スレ
【芸能】ラサール石井「だんだんとテレビに出られなくなりましたよ」、「世の中が右傾化してきて“パヨク”とか呼ばれる」★2
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