日本の財政支出は全然足りない…現金給付を反射的に「バラマキ」と批判する落とし穴

日本の財政支出は全然足りない…現金給付を反射的に「バラマキ」と批判する落とし穴

日本の財政支出は全然足りない…現金給付を反射的に「バラマキ」と批判する落とし穴

日本の財政支出は全然足りない…現金給付を反射的に「バラマキ」と批判する落とし穴

政府の現金給付政策は「バラマキ」と批判される。どこに問題があるのか。評論家中野剛志さんは「不必要な支出かどうか判断する際は、財政の余地や政策効果などをきちんと評価する必要がある。条件反射的に批判する財政健全論者たちの姿勢にこそ大いに問題がある」という――。

※本稿は、中野剛志楽しく読むだけでアタマがキレッキレになる 奇跡の経済教室【大論争編】』(KKベストセラーズ)の一部を再編集したものです。

■健全財政論者の口癖は「打ち出の小づちはない」

財政支出の仕組みを理解すると、2021年に話題となった矢野康治財務省事務次官の論文が、その出だしからいきなり間違えていることが分かります。冒頭部分を引用しておきましょう。

〈最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて、やむにやまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえあると思います。

数十兆円もの大規模な経済政策が謳われ、一方では、財政収支黒字化の凍結が訴えられ、さらには消費税率の引き下げまでが提案されている。まるで国庫には、無尽蔵にお金があるかのような話ばかりが聞こえてきます。〉

何が間違っているのでしょうか。

そうです。「まるで国庫には、無尽蔵にお金があるかのような話」というところですね。どうやら、矢野次官は、政府が課税によってお金を徴収して国庫に入れ、それを出して支出しているものと勘違いしているようです。

浜矩子同志社大教授も、矢野論文に同調して、「政府も日銀も、カネを振り出す打ち出の小づちを持っているわけではないのである」と書いていました(※)。健全財政論者たちは、「打ち出の小づちはない」「おカネは天から降ってくるわけではない」といった台詞を好んで使います。

浜矩子衆院選直前、矢野財務次官の寄稿をどう読むかレスキュー隊がレスキューされる不条理国家ニッポン」(時事ドットコムニュース)、2022年1月28日

■国庫が空っぽでもお金は無尽蔵に生み出せる

しかし、『楽しく読むだけでアタマがキレッキレになる奇跡の経済教室【大論争編】』の第二章で説明した通り、実際には、日本政府は、単にコンピュータのキーを叩いて、何もないところから円という通貨を創造しているのです。これが現実です。

ですから、政府は、国庫の中には現金を貯めなければならないわけではありません。政府は、国庫が空っぽでも、お金を無尽蔵に生み出すことができるのです(念のため付言すると、インフレを気にしなければ、ですが)。

これが、今日の国家財政の実態です。政府は、確かに、打ち出の小づちはもっていませんが、通貨を発行する権限はもっているのです。おカネは天からは降ってきませんが、政府からは降ってくるのです。

矢野次官は、自ら「財政をあずかり国庫の管理を任された立場」にあると言いながら、財政についても国庫についても、まるで素人同然の理解しかしていません。彼が「やむにやまれぬ大和魂」で発表した論文が、そのことを冒頭から暴露してしまったわけですから、これはもう悲劇としか言いようがありません。

■「バラマキ=不必要な歳出」の判断基準

ところで、矢野次官も使った「バラマキ」という言葉は、財政出動を批判する際の決まり文句となっています。「バラマキ」とは、おそらく、不必要な歳出のことを意味するのでしょう。

もちろん、不必要な歳出は、すべきではありません。しかし、問題は、「バラマキ=不必要な歳出」かどうかは、どのように判断するのかです。そこで、まずは、バラマキか否かの判断基準について、整理しておきましょう。

その判断基準は、三つあると思います。それは「財政の余地」「政策目的」「政策効果」の三つです。

第一の基準である「財政の余地」から説明しましょう。

なぜ「財政の余地」が、バラマキか否かの第一の判断基準になるのでしょうか。それは、何が必要な歳出で、何が無駄な歳出であるかの判断は、財源をどう見積もるかによって変わってくるからです。

■健全財政論者が「必要な支出」でも反対するワケ

例えば、現金給付の対象に関しては、「本当に困っている人に限定すべきだ」として、所得制限を求める議論があります。「本当に困っている人に限定すべき」というのは、確かにその通りでしょう。誰も否定できません。しかし、コロナ禍では、ほぼ全国民が困ったのではないでしょうか。また、長期にわたって続く経済の停滞や賃金の低下についても、一部の富裕層を除いて、みんな困っていました。

そうだとすると、現金給付の対象は、ほぼ全国民にしたってかまわないはずでしょう。しかし、なぜ、そういう話にならないのか。それは、財源に限りがあって、全国民には給付金を配れないと思っているからでしょう。

矢野次官が、給付金に反対しているのも、「本当に困っている人」を見捨てていいと考えているからではありません。もし、給付金を配った結果、日本政府が財政破綻したら、全国民が「本当に困っている人」になってしまうから、反対しているわけです。

もちろん、健全財政論者たちは、「必要な支出であるならば、躊躇なくすべきだ」「賢い支出に限定するならば、財政出動は認めてもよい」などと口では言っています。

逆に積極財政論者たちにしても「不必要な支出」「愚かな支出」をやれと言っているわけではありません。ですから、一見すると、健全財政論者と積極財政論者は、「必要な支出」「賢い支出」であれば意見が一致できそうな印象を受けます。

しかし、実際には、そうはなりません。なぜなら、健全財政論者たちは、いかなる歳出増も渋るからです。

■日本の「財政の余地」は十分過ぎるほどある

それは、どうしてか。もし、日本が財政破綻の危機に瀕しているならば、歳出削減より優先すべき支出目的などないはずだからです。

このように、給付金の対象である「本当に困っている人」の範囲、あるいは「必要な支出」「賢い支出」の定義は、「財政の余地」をどれくらい見積もるかによって、変わってくるのです。

ですから、健全財政論者と積極財政論者が不毛な対立を終らせるためには、何に支出するかについて議論する前に、「財政の余地」がどれくらいあるかについて、合意しておかなければなりません。

そして、「財政の余地」がどれくらいあるか、財政支出をどこまで増やしてよいかは、失業率やインフレ率など経済の状況によって判断すべきものです。

財政支出の拡大は需要を拡大するので、過度な財政出動は需要過多(供給不足)を招き、(デマンドプルの)高インフレを引き起こします。マイルドインフレであれば問題はないが、高インフレは国民生活に悪影響を及ぼします。だから、高インフレになるまでは、財政支出の余地があるということになります。

そして、日本は、高インフレどころか、長期にわたってデフレだったのだから、「財政の余地」は十分過ぎるほどあることになります。むしろ、財政支出が不十分過ぎると言うべきなのです。

■矢野次官は「コロナ給付金は無意味」と断じた

「バラマキ」かどうかの判断基準の第一の基準は、「財政の余地」でした。

第二の基準は、「政策目的」になります。

例えば、現金給付については「貯蓄に回るだけで、消費につながらない」という批判があります。矢野次官も、「昨春(注:2020年春)の10万円の定額給付金のような形でお金をばらまいても、日本経済全体としては、死蔵されるだけで、有権者に歓迎されることはあっても、意味のある経済対策にはほとんどなりません」と述べて、貯蓄に回る現金給付は無意味だと断じました。

しかし、消費に回るか貯蓄に回るかを議論する前に、確認しておくべきは、そもそも現金給付が何を「政策目的」としているかではないでしょうか。現金給付の「政策目的」が消費の喚起であるならば、「貯蓄に回るだけだ」という批判は、確かにあり得るのかもしれません。

■国民の救済になるのであれば貯蓄に回してもいい

しかし、現金給付の「政策目的」が、消費の喚起ではなく、コロナ禍で苦境に陥った国民の救済にあるのだとしたら、話は別です。生活が苦しい国民が、給付された現金を消費ではなく貯蓄に回したとしたって、それが国民の救済になるのであれば、一向にかまわないはずでしょう。

しかも、2020年春はコロナ禍の真っ只中にありましたから、当時の10万円の現金給付は、明らかに国民の救済を政策目的としていました。政府が感染拡大の抑制のために国民に外出自粛を要請していた時ですから、消費活動を盛んにしようとしていたはずがありません。

それなのに、矢野次官は、10万円の現金給付を「有権者に歓迎されることはあっても、意味のある経済対策にはほとんどなりません」と断じました。ここで、彼が「国民」ではなく、わざわざ「有権者」と書いているところに注意を払っておきましょう。

つまり、矢野次官は、政治家が選挙での票を目当てに、10万円の現金給付を決めたのだと暗示しているのです。このあたりに、矢野次官の政治に対する偏見がみてとれます。

■10万円程度では働く意欲をなくす状況にはならない

さて、「バラマキ」か否かを判断する第三の基準は、「政策効果」になります。

例えば、現金給付を長く続けたり、過度に高額の給付を行ったりするとしましょう。そうすると、国民が国からの給付に頼り切って、働く意欲をなくしてしまうかもしれません。

したがって、国民を救済するための政策は、国民が勤労意欲を失わないように、設計する必要があります。

ところで、国民の大半が給付金に依存して働かなくなると、日本経済はどうなるでしょうか。国民は働くのをやめて、消費ばかりを増やすことになるでしょう。働き手は足りなくなるのに、消費ばかりが増えることになります。

ということは、供給が不足し、需要が過剰になるわけです。需要が過多になり、供給が不足すると、物価が大きく上がります。要するに、(デマンドプルの)高インフレが起きるのです。

ところが、日本は高インフレどころか、20年以上もゼロインフレあるいはデフレでした。ということは、10万円程度の現金給付によって、国民が勤労意欲を失うなどと心配するような状況にはないと言えます。

■国民の消費を喚起し、経済が成長する政策

もちろん、極端に巨額の現金給付を行ったら、国民の大半が勤労意欲を失い、高インフレになるでしょう。しかし、勤労意欲を損なうことなく、消費を喚起する効果のある政策もあります。

それは、政府が、現金を給付するのではなく、仕事の機会を与えて給与を増やすという政策です。具体的には、公共事業を行ったり、公務員として直接雇用したりするのです。

そうすれば、国民は働くので供給が減ることはなく、むしろ増えます。同時に、給与が増えて所得が上がるので、消費も増えるでしょう。供給も需要も増えるから、高インフレにならずに経済が成長するというわけです。

もし、矢野次官が、「消費を喚起したいが、現金給付ではその政策効果がない」と言うのであれば、現金給付以外の政策で、直接的かつ確実に、消費を喚起する効果のある政策を講じればよいのです。

それは、消費税の減税です。

■現金給付に反対する理由は財政赤字の削減だけ

特に、生活困窮者ほど、所得に占める消費の比率が高い。ですから、消費税の減税こそ、「本当に困っている人たち」を助け、消費を喚起する政策になるでしょう。ところが、矢野次官は、消費税の減税には猛反対しています。そればかりか、消費税の減税を求める政治家たちの政策論を「バラマキ」呼ばわりしました。

要するに、矢野次官は、現金給付には「消費を喚起する効果に乏しい」という理由で反対しながら、消費を喚起する気など、さらさらないということです。というのも、彼の頭の中には、国民の救済も消費の喚起もなく、ただ財政赤字の削減があるだけだからです。

いずれにしても、「財政の余地」「政策目的」「政策効果」のどれも曖昧にしたまま、財政支出の拡大と言えば、条件反射的に「バラマキ」呼ばわりして批判するような姿勢は、大いに問題があると言うべきでしょう。

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中野 剛志(なかの・たけし
評論家
1971年神奈川県生まれ。96年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。01年に同大学院にて優等修士号、05年に博士号を取得。論文“Theorising Economic Nationalism”(Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。著書は『日本思想史新論』(ちくま新書、山本七平賞奨励賞受賞)、『目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室【基礎知識編】』『全国民が読んだら歴史が変わる 奇跡の経済教室【戦略編】』(KKベストセラーズ)など多数。

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※写真はイメージです – 写真=iStock.com/Biscut

(出典 news.nicovideo.jp)

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