「津波の脅威を信じなかった私が、息子を失った悲しみ」

「津波の脅威を信じなかった私が、息子を失った悲しみ」

「津波の脅威を信じなかった私が、息子を失った悲しみ」

この記事を読んで、胸が締め付けられる思いがしました。自分たちがいつも安全だと思い込んでいると、思わぬ災害に遭遇してしまうこともあるのだと。悲しい現実を再認識しました。

1 おっさん友の会 ★ :2023/03/11(土) 20:47:19.49ID:eI7vKn8u9

東日本大震災は11日で発生から丸12年になる。長男を亡くした宮城県名取市の女性は
あの日の一言をいまも悔やむ。「津波なんて来ないから。息子にそう言ってしまったんです」。
繰り返す災害に自身の過ちを生かしてほしいと願い、語り部を続ける。街並みは変わっても
一緒に生きた場所で。そして兵庫でも。

■いまも悔やむあの日の一言
 仙台湾に面し、平野が広がる名取市閖上地区。津波で住民の1割に当たる約750人が犠牲になり
震災で最も被害が集中した地区の一つだ。
 沿岸にある津波復興祈念資料館「閖上の記憶」代表の丹野祐子さん(54)は、閖上中学校1年だった
長男公太さん=当時(13)=を亡くした。
 2011年3月11日は同じ中学で3年生だった長女の卒業式だった。祐子さんは式を終えて長女と
公民館で謝恩会のさなか、午後2時46分の揺れに襲われた。
 すぐ近くの自宅を見に行くとテレビはつかず、冷蔵庫からは食品が散乱。水も出ない。
「『晩ご飯、どうしよう』。それがまず頭に浮かんだことでした」
 余震の中で公民館に戻ると、建物前のグラウンドに約100人が避難していた。その中に公太さんもいた。
卒業式を終えて友だちの家で遊んでいた。

 携帯電話の画面には津波警報が表示されていたが、公民館は海から1キロ以上離れている。
祐子さんもまわりの人たちも、あまり気にしていなかった。
 公太さんと会ったとき、祐子さんは一言、「津波なんて来ないから」。そう声をかけた。
大勢の人と一緒にいる安心感があった。 だが、地震から1時間6分後、事態は急変する。
 誰かの叫び声を聞いた。「津波だ! 逃げろ!」。見上げると、寺の本堂の上に砂煙が上がっていた。
とっさに隣にいた長女と公民館の2階へ。階段を上り終えたとき、黒い波が足元に迫っていた。

■残したかった名前
 公太さんの遺体が見つかったのは2週間後だった。
 その年の初売りで買った黒いダウンジャケットは*てしまって、がれきの中から発見された。
公民館のグラウンドから走って逃げる途中で津波に巻き込まれたらしい。
 「見つかっただけでほっとした。よくぞ出てきてくれたって。わが子の遺体が見つかって喜んだ。
そんな喜び方がこの世にあるのかって思いますよね。でも、行方不明者が多い中では、そんな状況でした」
 祐子さんはその後、生徒14人が犠牲になった閖上中の遺族会代表となり、支援者とともに慰霊碑の建立に力を注いだ。
「名前は親があげた最初のプレゼント。だから残したかった」。閖上中の閉校後は、新しくできた閖上小中学校の横に
場所を移して記憶をつなぐ。

つづきはそーすで 神戸新聞 2023/3/11 05:30
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202303/0016129099.shtml

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