【芸能】 島田一の介さんの策士な一面 師匠に「相方が見つからないので新喜劇に紹介を」と

【芸能】 島田一の介さんの策士な一面 師匠に「相方が見つからないので新喜劇に紹介を」と

【芸能】 島田一の介さんの策士な一面 師匠に「相方が見つからないので新喜劇に紹介を」と

1 朝一から閉店までφ ★ :2023/02/12(日) 22:45:23.94ID:8xYDOipn9

お笑い界 偉人・奇人・変人伝

公開:23/02/11 06:00 更新:23/02/11 06:00

 人情味あふれるお父さんからカン違いだらけの大ボケまで、どんな役柄も自然体でこなされる吉本新喜劇には欠かせない“名バイプレーヤー”島田一の介さん。

 私が新喜劇を初めて書いた1990年の「吉本新喜劇やめよッカナ?キャンペーン」で“クビ”宣告されてしまいました。

 その後、劇場から外され、地方営業のメンバーとして新喜劇を続けてらっしゃいましたが、95年に当時の“ニューリーダー”内場君、辻本君、石田(靖)君が会社に「ぜひ一の介さんを戻してほしい」と懇願し、劇場に戻られました。最初はニューリーダーからの懇願があったとは知らず、後で知った時に「必要としてくれてることがほんまにありがたかったな~」と話されていました。

 戻られてからは新喜劇を書いていた2000年過ぎまで私の拙い芝居に毎回のように出ていただき、「ココはこっちの方がええん違うかな?」「この方が話がスムーズに流れると思うけどな?」と大先輩にもかかわらず決めつけることなく、いつも“提案型”で的確なアドバイスを頂きました。

子供の頃から新喜劇が大好きで高校を卒業して就職したものの、新喜劇に入りたい気持ちが抑えきれず、2年あまりで退職。とはいえ新喜劇への入り方がわからないので、誰かの弟子になってまず吉本へ入ることを模索。

 当時夫婦漫才の第一人者だった島田洋之介師匠の下へ「弟子にしてください」と毎日頭を下げ続け、入門を許されて足掛かりをつくられます。そして同門の島田洋七さんとコンビを組んだものの、元々漫才師になるつもりはないので、ほどなく解散。

 師匠に「相方が見つからないので新喜劇に紹介していただけませんでしょうか?」と満を持してお願いしたところ「しゃあないな、わかった」と“念願だった”新喜劇に入団することになります。

「よくしていただいた師匠にはほんまに申し訳なかったけど、どうしても新喜劇に入りたかったんよ。漫才で“間”の勉強をさせてもらったのが役にたったな」と感謝されていました。

 そんな“策士”一の介さんが今も大切にしてらっしゃる師匠からの言葉が「辛抱せえ、ケツ割るな(諦めるな)よ」。「まじめに舞台を務めることが師匠への恩返しやな」と20年以上前にしみじみと話しておられました。

「なんでそこへ投げるかな~!」「いまの球は外野フライ打てたやろ~!」

 いつも穏やかな一の介さんが唯一と言っていいほど声を荒らげられるのは楽屋のテレビで虎党歴50年を超える大好きな阪神タイガースが思うような試合運びができない時にぼやかれる時ぐらいでしょうか。

 一時は「70歳まで舞台に立てたら十分」とおっしゃっていましたが、70歳を過ぎた今も元気に舞台に立たれています。おごらず腐らず、いつも穏やかな笑顔を絶やさない島田一の介さん。これからも大好きな新喜劇の舞台で元気な姿を見せていただきたいと思います。
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https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/318569/3

本多正識
漫才作家
1958年、大阪府生まれ。漫才作家。オール阪神・巨人の漫才台本をはじめ、テレビ、ラジオ、新喜劇などの台本を執筆。また吉本NSCの名物講師で、1万人以上の芸人志望生を指導。「素顔の岡村隆史」(ヨシモトブックス)、
「笑おうね生きようね いじめられ体験乗り越えて」(小学館)などの著書がある。新著「1秒で答えをつくる力──お笑い芸人が学ぶ『切り返し』のプロになる48の技術」(ダイヤモンド社)が発売中。

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